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明治維新幕臣」は、維新後の明治政府に仕えた幕臣について取り上げており、とくに箱館奉行所の変遷について詳しく触れられている。箱館は、王政復古後に新政府に平和裏に移行し、奉行などの上層部以外はほとんど据え置きで旧幕臣が事務に当たっている。その後、箱館戦争で榎本政権になり、新政府が撤退していることが、他の地域とは違うところ。明治維新は、革命の際に旧行政機構を居抜きで使い、円滑に移行した好例だと思う。開拓使における旧幕臣の比率は徐々に下がっていくが、革命直後に行政手段として旧幕臣を温存しつつ、徐々に新たなミッションに取り組むにつれて、それに対応できる人材を登用していった結果。特に廃藩置県がされるまえは、各藩が藩士を囲い込んでいるので、新政府の人材発掘先として幕臣静岡藩は大きな比率を占めていたのだろう。しかし、本の前半で江戸幕府統治機構や幕末の流れを概観しているが、この本に興味を持つ人が関心を持つであろう明治維新以降については後半にしか書かれておらず、もったいない。
「遠い崖5」では、徳川慶喜と外国使節団との面会が終わった後、サトウとワーグマンが大阪から江戸まで東海道を旅している。また、日本海側の開港予定地の視察のため、船で七尾まで行った後に、七尾から大阪までの北陸道も旅している。いずれもほとんどの行程では幕府の護衛がつきながら、大名のように下にもおかない取扱いで歓待されながら旅しているが、東海道では掛川で日光例幣使とすれ違い、襲撃されている。北陸道では、加賀藩では歓待されているのに越前では冷淡な扱いだったとか。その後、イカルス号事件が起きてその対応のために高知へ行ったり長崎へ行ったりし、解決までの間長崎に長逗留している間に坂本龍馬とも接している。薩長だけでなく佐幕派の主要人物と交流があったサトウだが、坂本に対してはあまり積極的な評価をしていないのが興味深い。イカルス号事件で対立する相手で、坂本からすればいちゃもんをつけられているという関係もあるのかもしれない。また、1867年のパリ万博で薩摩と幕府がつばぜり合いをした様子も書かれている。
「遠い崖6」では、大政奉還、王政復古のクーデター、鳥羽伏見の戦いを経て、明治天皇への外国公使の謁見までが書かれている。その過程で、神戸事件、堺事件、またパークス襲撃などが起き、その都度新政府側が謝罪するのだが、それまでの幕府の対応と異なり、可能な限り迅速に対応していることが、外国公使たちの心証を良くしていく様子がわかる。また、大政奉還の後に王政復古まで至るまでの間、サトウは西郷や伊藤博文などと多く接しているが、クーデターの動きをつかむことができず、逆に西郷に挑発されたりしてイギリス大使館の真意を引き出されたりしている。。また、当時の外交儀礼では、自国の元首に謁見したものだけが相手国の元首に謁見できるルールであり、そのため、明治天皇に謁見するのもパークスとミットフォードだけになっており、サトウは、謁見に向けて尽力したにもかかわらず、領事部門なので謁見していない。
「遠い崖7」では、江戸の無血開城に向けた調整の様子がまず書かれ、フランスに留学した徳川昭武をめぐる事情、同じくフランスに派遣された栗本の苦労、また、ウィリスが負傷兵医療のために中山道から新潟経由で会津若松に行く様子が書かれている。江戸開城に向けたうごきを探るためにサトウは江戸に派遣されているが、まさに同時期に西郷と勝の会談がサトウ邸から距離的にも近い薩摩藩邸で行われているにもかかわらず、その動きを察知できていない。勝海舟との人間関係がまだそこまで築けていなかったと著者は解説しているが、あわせて、この時期は仕事に対する意欲が失われていたのではないかとも推測している。倒幕派と親しく交わっていたにもかかわらず、王政復古のクーデターの動きをつかむことが出来なかったことが、疎外感を募らせる原因になっていたのか。ウィリスが、農民一揆に遭遇した会津若松から報告している、会津の苛政のために、武士階級以外で会津藩主に親しみを感じている人がおらず、江戸護送の時にも農民は野良仕事を続けているという指摘も重い。また、サトウは国後島にロシア兵が駐屯しているという噂を確かめるために北海道を西回りで航海しようとするが、宗谷で遭難し、フランスの軍艦に助けられたりもしている。