最近のもの

勝海舟西郷隆盛」は、両者がどのように関わっていたのか丁寧に書いている。特に、西郷が鹿児島に下って西南戦争で没した後、勝海舟が西郷の復権のために動いているのが興味深い。勝海舟が西郷を顕彰した碑が洗足池にあるらしいので見てみたいと思う。著者の作品はいつも読みづらいが、この新書は比較的読みやすい方だと思う。しかし、自分の研究結果を後の人が採用していないとしてケチをつけたりところどころ論争っぽいのが玉に瑕。著者によれば、晩年の勝海舟が西郷は征韓論者ではなかったと言い張っていたのは日清戦争の先達として西郷が持ち上げられるのに我慢ならなかったからで、自分でも西郷は征韓論者だと分かっていながら言い張っていたんだとか。著者は、際者は題名を海舟と南洲にしようと思っていたが、編集者に反対されたそうで、今の日本では南洲では通じないと嘆いている。
カミカゼの邦」は日中紛争で沖縄が戦場になり、停戦した後の日本で、高速増殖炉をめぐって中国のスパイと琉球義勇兵がドンパチするもの。設定は面白いが暴力描写が無意味に多く微妙。
「レッドアロー…」は2年前の文庫で当時読んだが、改めて再読した。西武沿線の独特な雰囲気について分析されている。著者は、西武沿線と中央線又は東急沿線、団地と戸建て、鉄道と自動車というように、物事を単純な構図にして対立構造に仕立て上げたり、逆に西武天皇制を導き出したりと、自分が思う図式がまずあって、そこに全てを当てはめていくのが得意なようだ。秩父で、西武秩父線が開通したときのことを「維新」と表現していることについて、この維新が昭和維新と解釈すれば秩父宮に関連するなどと牽強付会なことを書いたりもするので読者はひいてしまう。単純な図式に全てを当てはめるのは、後年の半藤一利のような感じ。

最近のもの

「遠い崖11」は台湾出兵をめぐる諸事情について書いている。大久保が北京に渡って清国と交渉する様子、英国の在清公使であるウェードが仲介して賠償金を引き出すまでが丁寧に紹介されている。征韓論問題で弱体化した政府が、不平士族の勢いをそらすために台湾出兵に突き進んだ様子もわかる。サトウについては、彼が神道について研究していたことが紹介されており、古代の祝詞について、賀茂真淵本居宣長平田篤胤を引用しながら研究している様子がわかる。日本人でも理解が難しいものを読みこなすサトウの理解力、日本語力がすごい。
「遠い崖12」は、明治8年から10年にかけてサトウが再び賜暇でヨーロッパに帰っているときの様子を紹介している。ヨーロッパでは頻繁に大陸旅行に出かけ、フィレンツェマールブルクに滞在したりとリフレッシュしているが、その合間でも勉強を欠かさない。また、イギリスでは法廷弁護士の資格を取るための勉強に取り組んでおり、勤勉なサトウの様子がわかる。ヨーロッパからの帰りでは鹿児島に立ちよっており、そこで西南戦争の勃発を目の当たりにすることになる。長崎から鹿児島までの移動も、長崎から茂木まで歩き、そこから船で牛深、阿久根まで移動しており、興味深い。
「遠い崖13」は、サトウが鹿児島で西南戦争勃発に遭遇した後、西郷軍の後を追うように人吉、八代へ移動し、長崎から横浜まで戻るところから始まる。鹿児島では苗代川を訪れ、朝鮮から連れてこられた人たちの暮らしぶりにも関心を持っている。東京では勝海舟のもとを訪ね、西南戦争について話もしているが、幕末から交流のある西郷に思い入れがあったようだ。サトウにとっては、やはり幕末の7年間がもっとも充実していた時期で、その後は、公務はこなしつつも政治に深入りしなくなり、その分関心が神道の研究や古書の収集、旅行案内執筆のための地方旅行に移っているようだ。
「遠い崖14」は最終巻。西南戦争が終わってから、公務で朝鮮に行ったり、来日している朝鮮人と交流したりするサトウの動きが紹介されている。明治15年に三度目の賜暇で帰国中にバンコク領事を告げられ、やがて日本に公使として戻るためにそれを受け入れているが、実際に日本に戻るには、さらに南米、タンジールを経る必要があった。宮仕えの身は、いつかそのように割り切らなければならないときがくるんだろうなと思う。14巻全体を通して、著者の文章の読みやすさ、明晰さが光る著作。

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アメリカン・ウォー」は、21世紀後半、温暖化による水位上昇の影響で衰退したアメリカでの第二次南北戦争をめぐる小説。アメリカで化石燃料の使用禁止を法制化した際、それに反発する南部諸州が独立を宣言して南北戦争が起き、優位な北部に対して南部は自爆テロなどで対抗するという設定で、南部には難民キャンプもあったり、様々な武装集団が乱立したりと、今の中東で起きていることが、そのまま南部に写されている。また、分裂したアメリカとは逆に、モロッコからカスピ海にかけてはブアジジ帝国なる新帝国(オスマントルコの再来のようなものか。)が発足しており、ここが南部を支援していて、暗にアメリカの内戦を通じた自国の影響力強化を狙っている。女主人公は南北戦争の影響で両親をなくし、武装勢力の一員として一匹狼的にテロを続けるも、北部に捕まり収容所で拷問を受け人格が変わってしまうという設定で、南部の降伏に伴って釈放された後も、北部に一矢報いるためにバイオテロを仕掛けることになる。このように、設定は興味深いが、正直、ストーリーとしては面白いわけでもなく、救いようがない小説という印象。
幕臣たちの明治維新」は、以前読んだ中公新書とテーマが似ているが、こちらはより明治維新後の具体的な事例を取り上げている。特に、山本政恒という静岡藩についていった後に群馬県庁に勤めた元御家人の記録を取り上げている。また、明治22年に開かれた東京開市三百年祭についても取り上げられていて、徳川家康入府から300周年を、東京開市という名目で祝った旧幕臣たちの動きがよく分かる。新政府の高官になっていた榎本武揚を委員長として担ぐことによって半ば政府公認のイベントとなり、実質は徳川の治世を懐かしんで祝ったらしい。また、旧幕臣たちがつくった会はいずれも高齢化により自然消滅したが、戦後、徳川宗家が日光にお参りする際のお供を目的として、幕臣の子孫たちの会が再結成されたというのも初めてしり興味深かった。
「遠い崖8」は、サトウが賜暇により一度帰国している間のこと、また帰ってから初期の明治政府との関わりを書いている。サトウが不在の間、ウィリスは新政府の大病院に1年契約で雇用されたが、新政府がイギリス医学ではなくプロシア医学を導入することになったこともあり、自ら辞職して薩摩藩に雇用されている。新政府に放逐されたウィリスを薩摩が拾ったという定説について、そう単純ではなく、解雇前から薩摩とウィリスが接触している様子なども紹介されている。サトウは帰国している間に賜暇を2度延長しているが、日本公使館は日本語の使い手がいなくなってとても困っていたようだ。サトウが日本に戻ってから間もなくパークスが賜暇で一時帰国するので、代理公使アダムスの活動が多く書かれている。
「遠い崖9」は岩倉使節団が出国して、アメリカからヨーロッパを回る様子。アメリカでは、当初使節団が想定していた条約改正の下交渉から本交渉に変わりそうになり、伊藤博文と大久保が急遽日本に戻って全権委任状を持って帰ることになるが、イギリスやプロイセンなどがそれを阻止しようと工作していることがよく分かる。アダムスがアメリカ経由で帰国する際に現地で岩倉や木戸と交渉し、片務的最恵国待遇の話などを持ち出して本交渉を断念させているが、岩倉たちがアダムスから聞くまで最恵国待遇のことを知らなかったというのも、当時の日本が置かれていた状況を物語るように思う。一方で、サトウは日光に行ったり冬の甲州街道を旅したり、灯台巡りをして京都、中山道をたどって東京へ帰ったりと、旅を続けており、日記にも政治的な事は書かれていない。幕末の刺激的な時期を過ごしたサトウにとってみれば、この時期の政治状況にはもうさほど関心がなかったのかもしれない。
「遠い崖10」は岩倉使節団が帰国した後のいわゆる明治六年政変を取り扱っており、特に西郷についての分析が多い。毛利敏彦の明治六年政変の研究を多く引用しながらも、それだけではなく著者自らの分析を多く書いている。曰く、西郷は明治維新ですでに「役割」を果たしきっており、維新後の新政府になじめずにいたが、朝鮮への使節という役割を見つけてそれに飛びついたのであり、そういう意味では征韓論者であるという。ただそれも、使節団から帰国した大久保と対立するに及んで徐々に関心が薄れ、最後は自ら辞表を出したのではないか、最後はもはや征韓論問題というより、「西郷問題」だったのではないかともいう。著者は、西郷の心理が、この時期のサトウの心理(日記には旅のことだけ書いており、政治状況にはほとんど触れていない)とも似通っているのではないかと指摘していて興味深い。また、鹿児島でのウィリスの動向についても触れられているが、同氏がイギリスへの手紙の中で鹿児島で結婚したことをひたすら隠しているのが不思議。ウィリスと大山県令の関係はかなり良かったようだ。

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明治維新幕臣」は、維新後の明治政府に仕えた幕臣について取り上げており、とくに箱館奉行所の変遷について詳しく触れられている。箱館は、王政復古後に新政府に平和裏に移行し、奉行などの上層部以外はほとんど据え置きで旧幕臣が事務に当たっている。その後、箱館戦争で榎本政権になり、新政府が撤退していることが、他の地域とは違うところ。明治維新は、革命の際に旧行政機構を居抜きで使い、円滑に移行した好例だと思う。開拓使における旧幕臣の比率は徐々に下がっていくが、革命直後に行政手段として旧幕臣を温存しつつ、徐々に新たなミッションに取り組むにつれて、それに対応できる人材を登用していった結果。特に廃藩置県がされるまえは、各藩が藩士を囲い込んでいるので、新政府の人材発掘先として幕臣静岡藩は大きな比率を占めていたのだろう。しかし、本の前半で江戸幕府統治機構や幕末の流れを概観しているが、この本に興味を持つ人が関心を持つであろう明治維新以降については後半にしか書かれておらず、もったいない。
「遠い崖5」では、徳川慶喜と外国使節団との面会が終わった後、サトウとワーグマンが大阪から江戸まで東海道を旅している。また、日本海側の開港予定地の視察のため、船で七尾まで行った後に、七尾から大阪までの北陸道も旅している。いずれもほとんどの行程では幕府の護衛がつきながら、大名のように下にもおかない取扱いで歓待されながら旅しているが、東海道では掛川で日光例幣使とすれ違い、襲撃されている。北陸道では、加賀藩では歓待されているのに越前では冷淡な扱いだったとか。その後、イカルス号事件が起きてその対応のために高知へ行ったり長崎へ行ったりし、解決までの間長崎に長逗留している間に坂本龍馬とも接している。薩長だけでなく佐幕派の主要人物と交流があったサトウだが、坂本に対してはあまり積極的な評価をしていないのが興味深い。イカルス号事件で対立する相手で、坂本からすればいちゃもんをつけられているという関係もあるのかもしれない。また、1867年のパリ万博で薩摩と幕府がつばぜり合いをした様子も書かれている。
「遠い崖6」では、大政奉還、王政復古のクーデター、鳥羽伏見の戦いを経て、明治天皇への外国公使の謁見までが書かれている。その過程で、神戸事件、堺事件、またパークス襲撃などが起き、その都度新政府側が謝罪するのだが、それまでの幕府の対応と異なり、可能な限り迅速に対応していることが、外国公使たちの心証を良くしていく様子がわかる。また、大政奉還の後に王政復古まで至るまでの間、サトウは西郷や伊藤博文などと多く接しているが、クーデターの動きをつかむことができず、逆に西郷に挑発されたりしてイギリス大使館の真意を引き出されたりしている。。また、当時の外交儀礼では、自国の元首に謁見したものだけが相手国の元首に謁見できるルールであり、そのため、明治天皇に謁見するのもパークスとミットフォードだけになっており、サトウは、謁見に向けて尽力したにもかかわらず、領事部門なので謁見していない。
「遠い崖7」では、江戸の無血開城に向けた調整の様子がまず書かれ、フランスに留学した徳川昭武をめぐる事情、同じくフランスに派遣された栗本の苦労、また、ウィリスが負傷兵医療のために中山道から新潟経由で会津若松に行く様子が書かれている。江戸開城に向けたうごきを探るためにサトウは江戸に派遣されているが、まさに同時期に西郷と勝の会談がサトウ邸から距離的にも近い薩摩藩邸で行われているにもかかわらず、その動きを察知できていない。勝海舟との人間関係がまだそこまで築けていなかったと著者は解説しているが、あわせて、この時期は仕事に対する意欲が失われていたのではないかとも推測している。倒幕派と親しく交わっていたにもかかわらず、王政復古のクーデターの動きをつかむことが出来なかったことが、疎外感を募らせる原因になっていたのか。ウィリスが、農民一揆に遭遇した会津若松から報告している、会津の苛政のために、武士階級以外で会津藩主に親しみを感じている人がおらず、江戸護送の時にも農民は野良仕事を続けているという指摘も重い。また、サトウは国後島にロシア兵が駐屯しているという噂を確かめるために北海道を西回りで航海しようとするが、宗谷で遭難し、フランスの軍艦に助けられたりもしている。

最近のもの

「樽」はミステリの古典で1920年に出版されたもの。ロンドンで発見された女性の死体入りの樽を巡り、英仏両国の警察、弁護士、弁護士に依頼された私立探偵が捜査を行う。早い段階で犯人候補が2人にしぼられるが、お互いのアリバイや有利な証拠が次々に出てくるのでどんでん返しが続き、最後にアリバイ崩しが行われる。古典だが今読んでも面白い内容。時刻表ミステリの要素も含まれている。
島原の乱」は2005年の新書。圧政に苦しんだ圧倒的弱者の農民がキリシタンの旗の下に殉教したイメージがあるが、これを読むと、キリシタンも周囲に改宗を強制したり、神社仏閣に火をつけたり僧侶を殺害したりしている。また、一度キリシタンを捨てたが、改めてキリシタンに戻る「立ち帰り」が同時期に発生し、それが連携してある種の宗教戦争に突き進んでいったことがわかる。その背景には、もともと島原天草がキリシタン大名の領地で、そこでもともとその他の宗派に対する攻撃がなされていたことがあり、その時期に青年だった人たちがまた当時を取り戻したいと思うようになり、飢饉や圧政が立ち上がるきっかけになったようだ。原城では1人残らず皆殺しになったというイメージが強いが、実際はかなりの数の事前の脱出があり、それに乗じたお互いによるスパイ活動もあったらしい。
最近幕末ものが多いので、関連して、昔読みかけていて10巻くらいで挫折した「遠い崖」をまた読み始めた。宮城県にいたときに萬葉堂で全14冊を購入したもの。
「遠い崖1」はサトウが日本に旅立ってから、現地で薩英戦争となる鹿児島へ向けて横浜を出向するまで。この時代はまだサトウは通訳生であり、イギリス外務省の領事部門でもっとも地位が低かったが、日本語を意欲的に学んでいたようだ。来日する前に上海北京で漢字を少しの間学んでいたそうだが、語学の才がもともとあったのではないか。まだ若かったのも有利に働いたのだろう。イギリス公使館のなかでサトウの立ち位置がまだ大きくないので、サトウの日記も紹介されてはいるものの、同僚のウィリスや、公使代理のニール中佐の行動などに多く触れられている。
「遠い崖2」は薩英戦争、下関戦争と、下関戦争の責によりオールコックが召喚されるまで。当時のイギリスと日本との間には電信が通じておらず、文書のやり取りにおよそ4か月を要していた。そのため、下関に連合艦隊が行く旨の報告がイギリス本国に送られ、それに対して中止の命令が日本に届くまでの間に、下関戦争は終わってしまっており、またその影響を受けて幕府とのやり取りも大きく進展していた。また中止の命令に続いて召喚命令も届いたため、オールコックは帰国の途についたが、実際の下関戦争の様子が本国へ伝わった後には、下関戦争に対して抑制的だった本国の評価は一変していた。この巻では、サトウは下関戦争の日記を日本語で書いたり、伊藤博文との文通を試みていたりと、徐々にその存在感が大きくなってきている。
「遠い崖3」はパークスが来日してからの幕府との交渉、鹿児島への来訪、その帰りに勃発した第二次長州征討まで。パークスは来日時はまだ37歳。鹿児島行きはサトウは同行していないので、この巻ではパークスの行動が主に取り上げられている。サトウの関係は、英国策論をジャパンタイムスに発表すること、その内容の紹介。上司であるパークスの幕府を一定程度カウンターパートとする考えと、英国策論の諸侯連合を相手とすべきというサトウの考えは明らかに不一致。無署名で発表されたとはいえ、パークスがどう思っていたのか気になるが、本国への報告類ではまったく触れられていないらしい。
「遠い崖4」は第二次長州征討で幕府が苦戦するなか、将軍が没して徳川慶喜が最後の将軍になり、慶喜と外国使節団が対面するまで。慶喜に面会したパークスはその人間的魅力にとりつかれている。パークスとロッシュの考え方の違いが面白い。その背景には、サトウやシーボルト、アリソンのように日本語を使える部下がおり、倒幕派も含めて複数方面からの情報を入手できるイギリス公使と、通訳も幕臣に頼らざるを得ず、情報源が限られているフランス公使との違いがある。サトウは、外国使節団との対面の露払いとして事前に大阪に行った際にも、薩摩藩士に会ったあとに佐幕派会津藩士とも交流したり、その交流範囲をどんどん拡げている。また、事前に慶喜と単独会見したロッシュに対し、パークスが、フランスと朝鮮との戦争に幕府兵を使わせることを意図していると曲解しているのも興味深い。

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「赤い人」は明治期の北海道の監獄事情を題材にした小説。現在の月形町に監獄をつくるために測量に入ったころから、囚人を送り込んでの監獄建設、北海道内の炭鉱や道路建設での囚人の使われ方が淡々と書かれている。囚人の労働力を活用するというのは旧ソ連にも通じる考え方だが、当時の日本では国費で囚人を養うよりはその労働力を使用し、減耗すればそれはもうけものというくらいの考えだったらしい。冬の北海道で足袋もはかせられずに強制労働に従事した囚人の苦労はどれほどだったのだろうか。監獄内では一切の暖房もなく、凍えながら冬を過ごしたんだとか。
「瀕死のライオン」は3年前にも読んだが、最後の戦闘シーン以外はほとんど内容を忘れていた。北朝鮮が日本国内に核兵器を持ち込み、日本を人質にして米軍の動きを封じた上で第二次朝鮮戦争を引き起こそうという動きがあることを察知した日本。それを事前につぶすために核兵器の搬出の証拠写真を撮るべく、自衛隊の精鋭たちが、自衛隊の籍を抜いて一民間人として北朝鮮に潜入し、ドンパチするという内容。内容は面白いが内閣情報調査室が美化されすぎでは。また、主人公の一人である内調の女性職員の描写が昔の男性が書く女性の描写そのもので、仕事に打ち込みすぎて夫とのすれ違いに悩んだり、久しぶりに夫とあるときには化粧をしたり、体を使って仕事をしたりと一面的。
「彷徨の季節の中で」も5年前くらいに2度読んだが、相変わらず内容はほとんど忘れていた。母と妹と3人で暮らしていた幼少期と、父の家に引き取られて以降との違いが際立っている。また後半は、大学に入って共産党の活動に従事するも、国際派と所感派の対立に巻き込まれて除名され、闘病するところが、他の人にはなかなかかけない自らの体験を活かした文章だと思う。著者は名文家なので、はっとさせられる表現が多い。
「雪国」は十数年ぶりに読んだ。前読んだときは、都会の男が湯沢の芸者と親しくなり、最後に火事を眺める話という印象しかなかったが、改めて読み返すと考えさせられるところも多い。行間がそぎ落とされているため、「いい女」の聞き間違いなど、なぜここで駒子がこう思ったのだろうと考えながら読まないといけない。島村が湯沢に行ったのは、はじめて駒子に会った初夏、トンネルを抜けたら雪国だったその年の12月と、最後に火事にあうその次の年の秋から冬にかけてかと思っていたが、会って3年とかそういう表現もあり、最後は2年ほど空いているのかもしれない。手がかりがなくよくわからない。駒子から見た島村はどういう存在だったのか。悲しいほど美しい声という表現もすごい。
竜馬がゆく」は司馬遼太郎の長編で、もう半世紀以上前の作品。燃えよ剣と同時期の作品らしい。全8冊で、丸一週間を要した。読むのが遅くなった。日本人にとっての坂本龍馬のヒーローとしてのイメージを形作った作品と言っても過言ではないのではないか。さほど史料がない前半に比べ、後半はだんだんと架空の人物の登場機会が減っていき、著者もいうようにある種の史伝的な感じになっていく。もっとも、明るく魅力的な竜馬を際立たせるために、他の登場人物には何らかの欠点があるように書かれるのが司馬遼太郎風なので、史実というよりは小説と割りきったほうが。小栗忠順の郡県制についても、竜馬側からみれば結果的にはフランスに隷属するだけに見えるし、そのように描写されている。
海援隊始末記」は7年ぶりくらいに読んだが、「竜馬がゆく」を読んだ後に読むと理解が進みやすい。これは更に古くて戦前の本だが、司馬遼太郎が元ネタにしたであろう記述が多い。また、坂本龍馬が死んだ後の海援隊の様子を書いているのも興味深い。鳥羽伏見の戦い直後の長崎奉行所での政権交代の様子とか、海援隊塩飽諸島、小豆島を短期間ではあるが統治していたとか、興味深い記述が多い。手紙のやり取りが多く引用されており、候文に慣れていないとつらい。
「陸援隊始末記」も海援隊始末記と同時期に復刊されたものでいわば姉妹編。戊辰戦争の初期に、陸援隊が高野山にこもって挙兵したのは知らなかったので勉強になりました。時期を間違えば天誅組と同じ運命になっていたのかもしれない。理想言論の龍馬と、現実武備の中岡という対比がわかりやすい。こちらも手紙の引用が多いが、中岡慎太郎の文章は意外と読みやすい。土佐藩の兵備の提言について、薩摩と長州の違いを述べながら具体的に提言するなど具体的で興味深い。

最近のもの

充たされざる者」はノーベル賞作家のカズオ・イシグロの作品で、著名な演奏家であるライダー氏がとある町の演奏会に招かれた際の混乱を題材にしている。町についていきなりスケジュールがわからなくなり、人に言われるがままに右往左往する様子が読み手を混乱させる。また、例えばホテルのポーターが内心考えている娘との不和をいつのまにかライダー氏が理解していたり、その娘がいつのまにか妻と一体化されていたり、車で遠路はるばる連れて行かれたパーティー会場で扉をあけると実はホテルにつながっていたりと幻想的な記述が多い。しかし、読みづらく感じさせない翻訳がすばらしい。人のコミュニケーションは、結局のところお互いの推測や思い込みで成り立っていて、どこかがくずれるとこの小説の中の世界のように成立しなくなってしまうというようなことを考えながら読んだ。夫婦の不和とそれが子どもに与える影響も、隠れたテーマとして設定されていると思う。
蝦夷の末裔」は前九年・後三年の役を書いており、炎立つを読みながら久しぶりに読み返した。史料に限りがあるなかで異本版の吟味をしたり、清原貞衡の正体を考察したりと、著者の考えが多々書かれている。前九年の役で名をあげた源頼義について凡将と評するのもそうなのかなと思わせる。
炎立つ」は1993年の大河ドラマ原作。藤原経清から奥州藤原氏の滅亡までを題材にしており、藤原経清と安部一族、清原一族、藤原三代の側を主人公にして書いている。特に、最終巻は藤原泰衡がメインとして扱われており、藤原三代の栄華をぶちこわしにした藤原泰衡というイメージを崩す描き方である。どうやっても頼朝が攻め込んでくることを悟り、義経を密かに逃がして身代わりの首を頼朝に届け、また、奥州攻めに際しても、奥州十七万騎を解散させ、抵抗せずに藤原一族だけが責めを負うことで、陸奥の民全体を救ったということになっている。とはいっても、前半に比べて後半の駆け足感が否めないのも事実。前半の中盤、前九年の役黄海の戦いのあたりが特に面白く読ませる内容。源義家も魅力的に書かれている。
「鉄砲を捨てた日本人」は30年以上前に書かれた本で、もはや古典。戦国時代には鉄砲作成の技術が向上し、用兵面でも長篠の戦いのように鉄砲を最大限に活用し、当時のヨーロッパのどの国よりも鉄砲の本数が多かった日本が、江戸時代に入ると鉄砲の開発を放棄し、数も減っていき、刀剣の世界に戻ったという。なぜかというと、刀剣とは異なり、飛び道具は卑怯という意識が日本にあったことだとか。鉄砲は手放しつつも、江戸時代に他の技術は着実に進歩しており、軍縮と技術進歩は併存が可能であるというのが著者の主張。しかし、江戸時代に鉄砲を放棄したというのも、戦いがないために単に需要がなかっただけなのでは。百姓は鉄砲を鳥獣対策として持っていたという話もあるし、鳥獣対策としては火縄銃で十分だっただけとも思える。問題提起としては面白いが、これを鵜呑みにして江戸時代をただ礼賛するのはどうか。
アイヌ学入門」はアイヌの風俗や宗教などについても言及していて網羅的だが、後半はあまり興味がもてなかった。著者は考古学の立場からアイヌについて研究していて、オホーツク人の南下とともにアイヌが仙台新潟のあたりまで南下し、その後また北上していったこと、9世紀頃に三陸あたりから石狩へ移住があったことなどが紹介されている。また、アイヌ民話に出てくるコロポックルは、北千島のアイヌとの沈黙交易がモチーフになっているそう。自然とともに生きているアイヌという姿ではなく、様々な相手と交易をし、相手から様々なものを取り込んでいくアイヌ像が書かれている。奥州藤原氏が北海道で金の採掘をしていたのではないかという指摘も興味深い。
「家族の樹」はミッドウェー海戦で戦死したアメリカ人飛行士の家族の話が中心で、その他、飛龍と三隈からの漂流者で捕虜になった日本人についての小編もついている。取り上げられているミッドウェー海戦で戦死したアメリカ人飛行士は、戦死直後に息子が産まれ、その息子もベトナム戦争で戦死している。澤地久枝ミッドウェー海戦の全戦死者の名前を調べているが、親子二代で第二次大戦、ベトナム戦争で戦死しているケースは、判明しているのはこの1件だけなんだとか。イタリアから移住してきたこの一族の成り立ちから、戦死後の残された家族の様子まで丁寧に書かれている。
「安土往還記」は、織田信長に気に入られたイタリア生まれの船員の目を通して信長を描いている。「事が成る」ことに心血を注ぐ、孤独な決断者としての信長像がおもしろい。そのような信長にとって、危険を顧みずに海を渡って布教に来る宣教師や船員は共感できる相手。作品中には実は「信長」という単語は一言も出てこない。安土城の豪華絢爛な様子が目に浮かんでくる。信長を題材にした小説は実はあまり読んだことがなかったように思うので、秋山駿の信長も読んでみたいと思う。
「幻の女」は1942年に書かれた古典サスペンス。前半の軽快な調子が徐々に重たくなっていき、終盤で、恐怖が首の周りを包んだとくるあたりはぞっとする。しかし事前にあらすじを知っていたから予期しながら読めたが、何も知らずに読んだら最後のどんでん返しまでだまされるはず。戦争中にこういう小説が出る国と戦争していたら負けるはずだと感じました。
「ミレニアム4」はミレニアム1〜3までとは著者が違うが、同じような雰囲気で書かれていて世界に入りやすい。主人公の後輩がかませ犬のように捕らえられて死んでしまうのがかわいそう。